Prease call my name



「ル・・・・・・・・ーピン。」

ああ、また、と誰にも気づかれないようにルパンは赤縁のメガネの下で苦笑した。

さすがに不自然な間だと自分が一番思ったのだろう。

ぶちまけられたプリントを拾いながらエミリーは大慌てで拾い集め出した。

「も、もう、ルーピン、大丈夫?何もないところで転ぶなんて危ないわよ、ルーピン。」

いや、今度は不自然に言いすぎだから。

素直過ぎる彼女の反応がおかしくて、吹き出しそうになるのを堪えながらルパンは『ルーピン』の演技に戻る。

「す、すみません、ミス・ホワイトリー。」

「へ!?あ、いえ、その、あのっ」

何故か不自然にどもりまくるエミリーは、せっかく拾い集めたプリントを腕からざあっと落とした。

「あ!」

「ああ、!」

「・・・・何やってんだ、お前ら。」

プリントの海の中で叫ぶ二人の横を通りがかったジャックに呆れたようにそう言われて、エミリーは引きつった笑いを浮かべた。

「ごめんなさい、ジャック。ルーピンが転んでプリントを落としてしまったから、拾うのを手伝っていたんだけど、私まで落としちゃって。ね、ルーピン。」

「はい、すみません・・・・。」

「たく、しょうがねえなあ。」

億劫そうにそう言いながら、一応はしゃがんでプリントを拾い集めてくれるジャックにエミリーは嬉しそうに笑って言った。

「手伝ってくれるの?ありがとう!ジャック。よかったわね、ルーピン。」

「は、はい。」

「・・・・どうでもいいけど、お前、ルーピンルーピン言い過ぎじゃねえ?」

「!!」

ついさっきルパン自身も思った適確な指摘に、エミリーはあからさまにびくっっっ!と反応して。

ばさばさばさっ。

「あ−!」

再びエミリーの腕から床へ逆戻りしたプリントを前に、ジャックはうんざりしたようなため息をつき・・・・ルパンは笑いを堪えるのに精一杯だった。















―― 大英帝国の首都、ロンドンの夜はとろりとした闇と霧に包まれている。

月明かりが歪みと矛盾を抱えながらも巨大に成長した都市の影を落とす街は、一種独特の雰囲気を醸し出していた。

何か恐ろしい事か、さもなければ何か予想も付かないことが起こりそうな、そんな不可思議な街の一角。

ウェストエンドに建つホワイトリー家の屋敷のバルコニーに、音もなく人影が降り立った。

月明かりに照らされて金の髪が輝く姿は、夜の闇に蠢く者の淀んだ暗さはない。

むしろ、月明かりに浮かび上がる口元が浮かべる自信に満ちた笑みが、己が夜を愛しているのではなく夜が己を愛しているのだとでもいいたげだ。

もっとも、彼が求めているのは夜という曖昧なものではなく、目の前の窓の内にいるたった一人の少女だけだが。

コンコン、とカーテンの影に隠れるようにして彼・・・・ルパンは窓ガラスを叩いた。

すると、「誰?」と鈴を転がすような声がする。

誰、と問いながら答えを知っているようなその声に、待っていてくれたのだろうかとルパンの鼓動が少しだけ速度を上げた。

「こんな時間に僕以外に、君を訪ねる男がいるの?」

ちょっとした自分の反応が気恥ずかしくて、おどけたような言葉を返すと、すぐにぱたんっと窓が開いて。

「そんな人、ルパンしかいないわよ!」

ストロベリーブロンドの髪をふわりと揺らして、月明かりに照らされたエミリー・ホワイトリーの満面の笑みに、ルパンの心臓がさっきとは比べものにならないぐらい跳ねた。

もちろん、そんなことはおくびにも出さないけれど。

「こんばんは。僕のお姫様。」

「こんばんは。ルパン。さあ、そこは目立つから入って。」

バルコニーの窓を大きく開けて促すエミリーの言葉にルパンは甘える事にする。

恋人になってから、ルパンがエミリーの部屋に訪れるこんな逢瀬は、ゆうに両手の指の数を超えている。

それでもエミリーの部屋に足を踏み入れる瞬間は、僅かに緊張する。

彼女の部屋は当たり前だが、どこもかしこもエミリーの匂いがして、彼女に恋する者にとってはちょっとばかり毒なのだ。

まして純粋で無邪気な彼女は。

「さあ、どうぞ。」

制服や余所行きの服とは違うくつろいだ服で、ふんわりとした笑顔を浮かべソファーの隣りを軽く叩いたりするものだから。

「・・・・失礼するよ。」

今日も刹那の理性と欲望の闘いを制して、ルパンはエミリーの隣りに座った。

(・・・・本当に、いつもながら僕のお姫様は理性の毒だよ。)

そうこっそりと苦笑していると、隣りに座ったエミリーが少しだけ表情を曇らせた。

「あの、ルパン・・・・。」

「ん?どうかしたのかい?」

「いえ、その・・・・」

エミリーは、彼女にしては珍しく歯切れが悪くそう言うと指を組み合わせるようにしてそこへ視線を落とした。

「その・・・・昼間の事なんだけど。」

(ああ。)

エミリーのその様子と言葉でルパンは彼女が言わんとしている事を察した。

昼間の事とは。

「君が『ルーピン』を呼び間違えそうになった事?」

「!」

先まわって指摘してやると、エミリーの肩がぎくっと震えた。

(まあ、気にしていると思ったけどね。)

その叱られる前の子犬のような反応におかしくなるのをルパンはなんとか堪えた。

ルパンは普段日中はハリントン学園に通う探偵見習の気弱な青年『ルーピン』を演じている。

ごく一部を除いて、それが演技だと気が付いてる人間はいないのだが恋人になる過程でエミリーはそれを知ってしまった。

さて、困ったのは(正確にはエミリーが困ったのは)様々な騒動も一応の決着をみた、その後だ。

『ルーピン』は『ルーピン』として今もハリントン学園に通っているわけで、クラスメイトとしてエミリーも今まで通り接することになったわけだが、『ルーピン』は『ルパン』なのである。

素直であまり器用とは言えないエミリーにとって、昼と夜の彼を呼び分けるのは意外と大変な事だった。

結果、よく起きるようになったのが、今日の昼間にあったような。

「確かに『ル』の後が随分長かったね。」

「うう・・・・」

しれっとしてそういうルパンに、エミリーが呻いた。

「『ルパン』と言わずになんとか堪えたけど、その後は慌てて何度も『ルーピン』って呼んでいたし。」

「ううう・・・・」

「プリントは落とすし。」

「うううう・・・・」

「ジャックには指摘されてるし。」

「うー・・・・」

次々にエミリーの動揺の軌跡を積み重ねれば、エミリーの眉間に困ったような皺が寄った。

(ああ、困ってるな。)

いやもう、手をぎゅっと組み合わせて小さくなっている姿は困ってますと語っている以外の何者でもない。

幸せそうににこにこ笑っているエミリーも好きだが、こういう姿を見るとなんとも言えない気持ちになる。

なんせ、とにかく懐が深くて誰にでも優しいエミリーが自分が原因でこんなに困っているのだ。

今、エミリーの頭の中にあるのは、ルパンへの言い訳だけに違いない。

常日頃、いろんな相手に優しくしているエミリーを見ては・・・・多少なり面白くない気持ちになっている身としては。

(・・・・すごく、可愛いと思うのは僕が意地悪だからってわけじゃないと思う。)

こっそりとそう言い訳して、ルパンはそれでもいつまでも悩ませているのも可哀想か、とぎゅっと握られていたエミリーの手に自分のそれを重ねた。

「そんなに握ると爪で傷がつくよ。」

「あ・・・・。」

指摘されて初めて自分でも手を握りしめていたことに気が付いたのだろう。

気まずそうにそっと手を開くのを見逃さず、自分に近いほうの右手を愛しむように両手で包み込む。

そのこの上なく優しい仕草に勇気を得たのか、半身をこちらに向けてエミリーは空色の視線をルパンに向けた。

「えっと、呼び間違えそうになってごめんなさい。」

「いいよ。君が気にすることはない。」

これは気遣いというより事実を述べた言葉だった。

実際、エミリーがルーピンをうっかり呼び間違える想定など、彼女と恋人になった時からルパンの頭の中にはある。

すでに何パターンか誤魔化す方法は考えてあるから、それをまだ一度も使っていないだけ彼女は頑張っていると言えるだろう。

だから、気にしないでいいと言ったのだが、エミリーは表情を曇らせて首を振った。

「気にしないなんて無理。」

「そう?僕は君が例え呼び間違えても、そのための備えぐらいはしているよ?」

「そうなの?」

初めて聞いたというようにきょとんっとしたエミリーだったが、一瞬考えて、やっぱり小さく首を振った。

「ううん、やっぱりだめ。」

「何が?」

「だっていくら貴方が誤魔化してくれたって、万が一私が呼び間違えた事で一緒にいられなくなったりしたら嫌だもの。」

眉を寄せて悲しそうにそういうエミリーの言葉に、とくん、と鼓動が跳ねた。

そして、ほらきた、と頭のどこかで思う。

表面上は甘い言葉やら大胆な行動やらでルパンがエミリーを振り回しているように見える二人の関係だが、ルパンに言わせればエミリーの方がよほど予測不可能で心臓に悪いのだ。

素直に真っ直ぐに、どこまでもルパンを甘やかすような事を言う。

そしてやっぱり今日も予想外にときめかされた・・・・と思っていたけれど、まだ甘かった。

というのも、エミリーは自分の鼓動をいつもの不敵な笑みに隠そうとしているルパンをじっと見つめて、一生懸命な様子で言ったのだ。















「それに『ルーピン』の時の貴方は『ルーピン』で、『ルパン』の時の貴方は『ルパン』でしょ?私、いつでも『貴方』を呼びたいもの。」















「―― っ!」

(・・・・やられた。)

一瞬、息が詰まった。

こういう事を真っ直ぐに言ってしまうから、エミリーは油断ならないのだ。

ルパンは怪盗だ。

怪盗というのは人を欺くもので、本性を幾重にも隠すのは当たり前。

けれど、その隠した一つ一つさえもきちんと向き合いたいのだと言ってしまうエミリーの真っ直ぐさと、その根底にあるルパンへの想いが今の言葉はストレートに伝わってくるものだった。

(ほら・・・・やっぱり振り回される。)

どきどきとうるさいぐらいに聞こえる鼓動が耳に付いた。

ものすごくエミリーを抱きしめたいけれど、このまま抱きしめればきっとこの鼓動が駄々漏れになってしまう。

でも。

「ルパン?」

黙ってしまった自分に不思議そうに首をかしげるエミリーが、愛しくて、触れたくて。

「・・・・ひゃっ!?」

結局、引き寄せた手にキスをした。

驚いたようにまん丸く見開かれる青い瞳の眉間にもキス。

「あ、あの、ルパン!?」

あわあわとしながらも赤くなるエミリーを見ていると少しは落ち着いた。

落ち着いたけれども、自分ばかりが魅了されているのもやっぱり少し癪で。

「・・・・ああ。」

ふと、ルパンの頭の中に良い考えが浮かんだ。

「?どうしたの?」

「ねえ、エミリー。君はいつでも『僕』を呼びたいって言ってくれたよね?」

「え、ええ。」

さっきの言葉は確かにそう聞こえた、と告げればエミリーは戸惑いながらも頷く。

それならば。

「ジャン。」

「え?」

「ジャン、と呼んでくれればいい。」

「え・・・・えええ!?」

一瞬考えて、ついで目をまん丸くして驚くエミリーに堪えきれなくなってルパンは吹き出した。

「そんなに驚くこと?」

「お、驚くって言うか、その・・・・!」

「ジャンはルーピンにとってもルパンにとってもファーストネームだし、呼び間違えないでいいんじゃないかと思ったんだけど?」

「で、でで、でも!!」

ファーストネームは特別だし、ともごもごと呟くエミリーの気持ちもわからないではない。

この英国社会において、ファーストネームは家族でないなら親しい友人か恋人ぐらいしか呼ばないのが普通だ。

・・・・と、エミリーの困り顔を堪能していたルパンはあまり思い出したくないことを思い出してしまった。

「そう言えば、エミリーはあいつはファーストネームで呼ぶじゃないか。」

「え?」

「ジャック・ミラーズ。」

「ジャック?ああ、そう言えば。え、でもジャックはなんていうか、ジャックで・・・・。」

「ただのクラスメイトのあいつをファーストネームで呼ぶのに、恋人の僕は無理?」

「そ、それは・・・・」

エミリーがジャックはジャックで、という意味がわからないわけではない。

でも恋人としてはここは譲れない。

というわけで。

「エミリー?」

「う、そ、その・・・・が、がんばってみるわ。」

顔を真っ赤にしたエミリーから、それでもその言葉を引き出してルパンは満足そうに笑った。

「なるべく早く呼んで。」

もう一つ追い打ちをかけて、自分の名前を紡ぐ事を思いながら、ルパンはエミリーの唇にキスをしたのだった。















                                             〜 END 〜

















― あとがき ―
実はこの続きが現在拍手お礼になっているSSへと続いていたりします。